空海と最澄の出会いと別れの話を聞いたことがありますか。
二人とも時を同じくして
遣唐使として中国に行きました。
最澄は既に高僧でその団長であり
空海は、なんと私費留学生でした。
最澄は正統派の仏教を勉強しましたが
空海は当時、あまり知られていなかった密教を勉強し
その奥義を極め、多くの教典を持ち帰ったのです。
その後、
最澄は比叡山で天台宗を開き
空海は高野山で真言密教をスタートすることになります。
帰国当時、
桓武天皇は密教を学ぶことを熱望していました。
ところが中国で
最澄はその密教の勉強をする機会があまりありませんでした。
最澄は空海にお経を貸してくれるように頼み
空海は最澄に快くお経を貸していました。
最初二人は蜜月でした。
ところが、ある時点で空海は
「これ以上は経文の巻物を読んでも密教の奥義は得られない。
実際に面と向かってエネルギーで伝えなければならない」と言います。
つまり、
「筆授」ではこれ以上の深さは学べない。
「面授」でのみ可能となるというのです。
最澄は
「いや、自分は面授でなくとも筆授で理解できる」と主張します。
空海は、それでは伝えられないと言います。
そして、別れがくるのです。
これが筆授・面授論争です!
私も空海と同じように
「面授」が大切だと思います。
理性で理解できても、本性(魂)で受け取るためには
その人のエネルギーに実際にふれなければ難しいと思います。
概念的に理解しても
本質(魂)に触れなければ
本当に理解したことにはならないのです。
これが知識の悲劇です。
私たちはそろそろ
この知識の悲劇の悪循環を立たなければなりません。
あなたは
面授派ですか それとも、筆授派ですか?